はてな、オープンでもクローズドでもない不可能なもの?

自分でも数ヶ月前に評論関係のクローズドMLとか作って、現在のところ十数人って規模なんですが、これがなかなか止まる時には止まるもので。苗木のごとく毎日水をやるように主宰が書き込まなければいけないものだったりしますよね。で、そうするとそれなりにログ進むんだけど、これ自分だけで進めてるんじゃ……なんて気分にも。


で、それなりにオフでは親しいはずのMLメンバーに、「(親しいはず)なのにどうして書かないの?」なんて聞いてみました。すると返ってきた答えが、「いやなんだか砂さんに見られてると思うと」とかいうもの。そんな寂しいことを、なんて思わなくもないですが、よく考えると私も他のMLでやはりメンバーの視線を感じて書き込みにくい、なんてことあるわけで。なるほどね。つまり、MLだと、そのメンバー全員に必ず届くわけで、すると尊敬か嫌悪かにかかわらず送信者が意識するメンバーにも必ず届いて見られてしまう、計られてしまう、という恐怖を引き起こすわけだ。自分が見る者(主体)ではなく見られる物(対象)になるという恐怖、視線によって自分が対象になってしまう恐怖、というやつ。オープンでは出来ないやりとりもクローズドだと気楽に出来る、なんて思っていたんですが、どうもそうもいかない理由はこれか。


オープンな場での日記がしばしば誰とも知れない第三者の視線を前に萎縮してしまうのに対して、クローズドな場としてのMLでは具体的な他者の視線を前に萎縮してしまう、ってことだ。オープンな場での第三者とは、実は送信者に内面化された最高権威であったり、逆に「誰にも見られてないのでは」といった無に対する不安であったりする。ああ、出てきたね。つまり、これは超自我とか大文字の他者とか言われたりするものの力による萎縮だ。自分の枠を決めがたい、って先日の日記の話もこれと関係している。それに対してクローズドな場での他者とはたいがい具体的な友人知人であるわけで、これは「必ずあの人も見るはずだ」という恐怖の形をとる。尊敬したり嫌悪したりするそうした人たちの過剰な反応を予期したり、無反応をひどく大きく受けとったりすることで萎縮するわけだ。内面化された絶対的な他者のものであれ、具体的な相対的な他者のものであれ、視線は自分を対象へと変える恐ろしいもの、というわけ。


そこで、なぜはてなダイアリーはわりと書きやすいかというと、その視線がいい具合に管理されているからだ。重要なのはやはりキーワードや署名などの自動リンク。これによって、見られた物はただちに見る者に反転できるし、見る者はただちに見られる物にも反転する。はてなを始めるとは、それを受け入れるという契約なわけだ。そしてその契約が人を自由にする。そこでは、自動リンクによって明らかに誰かに見られるだろうという事実が、「誰にも見られてないのでは」といった無を頂点とする内面化された絶対的な他者の視線による対象化の不安を緩和するし、逆にそれが自動リンクに過ぎないがゆえに「必ずあの人も見るはずだ」といった具体的な他者の視線による対象化の恐怖も緩和する。そして署名の自動リンクが一方的な視線による対象化の暴力を双方向化して緩和する。緩和緩和でみんなもすっかりリラックスして書きまくるわけだ。


そんな具合で、オープンとクローズドの中間という不可能なものをシステム的に可能にしてしまったはてな。いい感じよ。