その間に

松文館裁判の一審の判決が出てましたね。有罪判決で被告側は控訴。しかしこの裁判、重要なのは判決が有罪か無罪かではなく、その裁判闘争の内容だろうと思っています。ぶっちゃけ最高裁まで行ってしかも有罪が確定しようとも、マンガに猥褻罪を適用するのはそぐわないと司法に印象づけることができればいいだろうと。


とても単純な比較はできないけれど、先例として考えるのはチャタレイ裁判。芸術か猥褻かを争点にしつつ、あれは最高裁まで行ってしかも有罪判決(芸術だからといって猥褻ではない、ということにはならない、と判断された)。だけれど、その結果、以降いかなる小説であっても現在に至るまで猥褻罪で取り締まられてはいない。それ以降、小説という文化の扱いに司法は慎重になった、ということだろうと思います。チャタレイ裁判は裁判自体としては文学の側の敗訴だったけれども、この闘いで文学は実をとった。松文館裁判においても、やはりこうした実をとれるかどうかが問題だろう、といった感想を持ちました。


しかし一方で、エロマンガを描く側も、文化を自称したあげく居直って現状肯定していていいわけがない。よく、文化には毒が必要だ、といった擁護の論を見かけるけれど、実際のところそうした場合の毒というのは、どれほど過激さを装っていたところでいささかも支配的なイデオロギーを揺るがすものでもなく、むしろそうしたイデオロギーを再生産するちょっとした栄養にしかなってないことが多い。その点では、猥褻と疑われるモノとそれを取り締まる国家装置との関係は、とても対立するものではなくて、むしろ、ビタミンの過剰摂取は毒になるので勘弁してくれ、とでもいうような協調的な関係にあると言える。そもそも、この男社会にあって男に都合のいいだけのものを描いて、毒も文化的抵抗もへったくれもないだろう。この点ではid:natsu-k:20040115の指摘はたんに正しい。


もしポルノが文化たりうるとしたら、それは支配的な制度の再生産装置と化してしまったセックスを見せかけの過激さで肯定するといったものではないはずだ。むしろ、そうしたセックス中心主義から性行為を多様な生と快楽へと解放するものでなければいけないだろう。それは例えば、女性からも肯定されるセックスの表現とはどういうものかを問う、といったことでもあるはずだ。男女ともに楽しみ肯定することが出来、それゆえに真に過激であり、かつ猥褻ではないポルノは可能なはずだ。それを探求しなければいけない!