「リローデッド」は会話映画である。

「リローデッド」は、アクション映画ではない。アクション映画とは、たんにアクションシーンがある映画のことでなく、むしろアクションによって人物の関係性や物語などが変容する映画のことだと言わねばならない。「リローデッド」のアクションシーンにはそのような物語論的機能はない。逆に、たとえばホークスの「脱出」のように、ライター一つが登場人物の間を往復するだけであってもそれが物語論的機能を帯びているのなら、それは正しくアクション映画である。だから、たんにアクションシーンでキアヌの身体操作がヘボいとか、画面を支えるキャメラや編集がないとか、運動についての想像力が日本のアニメの水準とは比ぶべくもないCGアニメであるとかいうことを差し置いても、なお「リローデッド」はアクション映画ではないのだ。


では、「リローデッド」において物語論的機能がどこに集中しているかというと、登場人物たちの会話である。実際、「リローデッド」を鑑賞する上で重要な情報はほとんど会話でしか示されない。しかも、こうした会話シーンでは、まったくと言っていいほど画面内の運動(アクション)が無くなってしまう(逆に、たとえば前出のホークスの「脱出」では、ライターの往復運動は男女の会話のシーンに挿入される)。いよいよこの映画は会話映画だということになる。しかもこの会話シーンは、人物相互の単調な切り返しショットの多用によって作られている。原則として、観客がある画面に関心ある視線を向けて続けていられる時間は限られている。だからこその切り返しなわけだが、とはいえこうもさして変らぬ画面を何度も見せられた観客は、いったいなにに頼って関心ある視線を持続するか。またしても、またしても会話だ。


ところで、会話に頼って物語を展開することもまた映画に可能だとしても、これは映画的な手法とは言えない。なぜ、しばしば映画の黄金期が1930年代のハリウッド映画にあると言われるか。それは、サイレント期にセリフに頼らず運動と画面の連鎖によって物語を伝える技術を完全に体得した映画人たちが、トーキーを得ることによってついに音声と音楽を手に入れ、サイレントの技術を支えにしながらさらにセリフと音楽によって映画を作ることで、観客に映画を観ていることを忘れさせるほどの圧倒的な明晰性によって物語を伝えた時期だからだ(映画を見失うほどのその明晰性を蓮實重彦は「透明性」と呼んだ)。だからその後、サイレント期の技術が失われるとともに、「映画は衰えた」などと言われることになる。会話と音楽に頼った映画は、そういう意味で「衰えた映画」である。


現代のハリウッド映画は、その「衰え」を過剰な視覚効果によって補って復活した。それはある意味で、「列車の到着」など驚くべき見世物として出現したリュミエール兄弟の「映画」にあった視覚の驚きの反復だともいえる。「マトリックス」第一作とは、「衰えた映画」でありながら、マシンガン撮影によってリュミエール的驚きを反復することの一点において成功した映画ではなかったか。だが、「リローデッド」にはもはやリュミエール的反復は無く、トーキーに頼った「衰えた映画」が残ったばかりだ……それが私の見方です。*1


上記のことから次のことがわかる。「リローデッド」のアクションシーンはたいした質ではない。だから、「リローデッド」を楽しめるかどうかはむしろこの会話シーンを楽しめるかどうかにかかっている。この会話シーンを楽しめた人はこの映画を評価するだろう。ところで私は楽しめなかった、視覚的にも会話内容的にも。だから私は「リローデッド」を評価しない。しかし私はもちろん、会話シーンを楽しみ、したがって「リローデッド」の物語内容を楽しみ評価する人たちを邪魔しはしない、と付け加えておこう。なにせ、私はここで映画の話こそすれ、一言も物語の話はしていないのだから。*2

*1:ところで、「リベリオン」は実はここでも優れている。「リベリオン」は物語とその展開をあまり会話に頼っていない。つまりその点もたんに映画的に優れているのだ。さらにところで「リローデッド」の音楽はどうか。なんだかやけに「スター・ウォーズ」的な、つまりジョン・ウィリアムズ的な交響曲風の音楽が耳に触った。ここも「マトリックス」から後退していないか? ジョン・ウィリアムズを遡るとコーンゴルドにゆきつくわけで、つまりヨーロッパにゆきつく。そういえば人物造形も背景美術もヨーロッパ的比重が強まっていた。なんだかな。

*2:それでもなお「リローデッド」を映画として観た場合どうか、という問いは立てうる。「そこに何が映っていたか」にこだわることで、「マトリックス」的主題、あるいはウォシャウスキー的主題を視覚にとらえることは可能かもしれない。しかし私にはそのやる気がでない。誰かやってくれたら喜んで読んじゃうよ。